こんにちは、青江です。
2015年も皆々様には大変お世話になりました。
今は岡山の実家で甥っ子の登場を待ちつつ、マイケルジャクソンの「THIS IS IT」
を見ているという、穏やかな年末を過ごさせてもらってます。
今年も勝手に恒例にしているマイルス・デイビス自叙伝風の振り返りブログを書きました。
このブログを読んでくださっている皆様の中で、マイルスの自伝を読んだことのある方は
ごく僅かだと思いますが、一人語り形式で綴られたジャズの帝王の唯一の自叙伝なんす。
文中、もちろん敬称略ですし
僕のささやかな活動に関してもことさら大げさに書いてあります。
その辺りをいろいろ汲み取って頂きつつ、よろしくでございます。
バックナンバーは
2010年 矢沢永吉「成り上がり」風振り返りブログ
2011年 マイルス自叙伝風振り返りブログ
2012年 マイルス自叙伝風振り返りブログ
2013年 松本人志「松本坊主」風振り返りブログ
2014年 マイルス自叙伝風振り返りブログ
あ、よくみたら2014年のやつのタイトルが
「2015年」になってるな。まあいいか(笑)
青江好祐としての新年1発目は明治神宮前ひまわり広場で手をつなごうです
2016年1月10日(日)
明治神宮前 ひまわり広場で手をつなごう
2016年うたいはじめイベント
「ようこそわたしのリビングへ〜最終日〜」
開場/開演 17時半/18時
当日/前売り 2500円/3000円(各1ドリンク別)
出演 青江好祐/THE LED SNAIL/SENBO/catalana29/大政和寛(leno)
青江はトリで20時20分くらいからですが、vojoでもギターを弾いている大政氏や
女たちでオルガンをぶいぶいいわせてくれてたrose様のLED SNAILなどなど
見どころ満載のアコースティックイベントです。
お時間都合付く方はぜひ最初から最後までお楽しみくださいませ。
ご予約、お問い合わせはaoesongs@yahoo.co.jpのメールか
ツイッター、@aoesongsまでお気軽に!
では、みなさん良いお年を!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「青江好祐2015年自叙伝」
まあ、聞いてくれ。
2015年の幕開けはかなり慌ただしかった。
アルバム「Aoe in blue」の仕上げにかかっていたからな。
ジャケットの入稿がかなりギリギリで、
デザインを任せたリュウジにはかなり世話になった。
リュウジに初めて会ったのは10年ほど前の吉祥寺プラネットKだったが、その時から今まで、ずっと頼りになる兄貴分だったのさ。
他にもジャケットの写真を撮ってくれたタルミや、エンジニアからミックス作業まで音関係を任せていたコンドー、たくさんに人間の力を借りていた。
とにかく、あと一歩というところまできていたんだ。
2月にレコ発ワンマンを控えていたが、1月も様々な形でライブをやりまくっていた。
その中の一つ、vojoでのライブではドラマーをクビにしたりと相変わらず困難な状況は続いていた。
クソッ、まさにin blueというわけだ。
青江好祐と女たちではセマという新しいドラマーを迎え、リハを進めていた。
若いのにかなり出来るやつだ。
あまりにも素晴らしくて
「オレの曲に合うように、もう少し下手に叩いてくれないか?」
と言ったくらいだ。まったく、あれには笑ったぜ。
そして迎えた2月の「Aoe in blue」レコ発ワンマンは素晴らしい夜だった。
前半を青江好祐と女たち、後半を青江好祐と男たちに分けて演奏した。
男たちのメンバーはクミチョウやトヨキ、そしてタケシといった
チン青江のメンバーを中心にした。
そこにコンドーがギターで参加しているんだ。サウンドが良くないわけないだろう?
本格的なレコーディングは2014年の9月からだったが
曲の準備や構想期間を含めると実際は2、3年はかかっていた。
このレコ発が終わってようやく、「Aoe in blue」に関する全ての作業が終わったような気がしたんだ。
翌日、伸ばし放題だった髪を切り、髭を剃った。
俺なりのリフレッシュだったわけさ。
いささか疲れは溜まっていたが、3月も俺は止まるわけにはいかなかった。
vojoの新しいドラマーを探さなきゃいけなかったが、オーディションの1発目で
素晴らしいドラマーを捕まえた。それがリーだ。
リハを終えて飲んでいる時、やつは少しナーバスになっていて
「オレをvojoに入れろよ!」と荒ぶったから
「入れるも何も、オレたちはvojoに正式に加入した覚えはないぜ?」と言ってやった。
他のメンバーも笑い転げていたが、その瞬間にやつはvojoの一員になったんだ。
4月は秋葉原のオクトーバーフェストで青江好祐と女たちのライブがあった。
この時メンバーのスケジュールに関して色々と手こずった部分があったが、
アキヨシが呼んでくれたイベントだったからどうにかして出演できるように調整をしたのさ。
ライブはとてつもなく盛り上がり、最後のアンコールでは酔っぱらいたちが総立ちで手拍子をしていた。
まったく信じられない光景だったぜ。
5月は琵琶湖で行われたユウスケの釣りフェスに出たり、拾得で男たちを率いて2マンを
やったりしたが
その前にとても悲しい出来事があった。
祖母のシゲコが亡くなったんだ。
4月末に高松でライブを終えたあと、オレは岡山に見舞いに立ち寄っていたが
その時はまだ元気そうな感じもあり、少し安心したところだった。
オレの活動を常に応援してくれていたが、ライブに一切穴を空けない
タイミングで亡くなったんだ。
シゲコが最後までオレの活動を見守ってくれているような気がして、
俺は何とも言えない気持ちになった。
いつだってオレの音楽のファンでいてくれたシゲコのために
葬儀では「Aoe in blue」を爆音で流した。
出棺を見送ったのは「はいはいろうろう」だったんだ。
シゲコが少しでも喜んでくれてればいいんだがな。
俺は止まっているわけにはいかなかった。
6月にはレコーディングにも少し関わったアカネのワンマンライブや
8月にはそのアカネのAチームでのツアー、さらには
9月から始まるユウスケとの釣りツアーのための新曲も書かなくてはいけなかった。
なんとかそれらをこなし、ユウスケとのツアーに出た。
LOVELOVELOVEのキョンピー、サンやSSWのコータも一緒で
アコースティックとはいえ、かなりバンド感に溢れたツアーになった。
行きの車中、ユウスケの事務所の社長に
「毎回美味い物をたらふく食わせてもらっているから、今回も太らせてもらうぜ」
と言ったのがきっかけで、本当に寝ても覚めても食いまくるツアーになった。
京都で皆と別れる前には1キロのカレーライスを平らげたほどさ。
9月の釣りツアーファイナルを大盛況で終えた後も
vojoやアカネのサポートで俺はかけずり回る事になった。その合間に、コンドーとのライブも2回ほどやったんだ。
一つは剃毛&また生えてくる、というユニットだが、バンドを解散した頃には
またこうやってコンドーと歌う事は2度とないと思っていたからな。
また生えてきたってわけだ。
12月は毎年恒例のユウスケのワンマンの前説をやった。
俺の前説はただ喋るだけではなく、あらかじめ録音した音源に合わせて
色々やるというスタイルだが、社長が6月くらいに
「今までの前説の音源をまとめて物販で売ったらどうだ」
と持ちかけて来たんだ。
その時は正直ピンと来ていなかったが、いざ販売してみると
飛ぶように売れていた。呆気にとられている俺に、社長は
「はい、ごくろうさん」
と売り上げの札束を渡してきたんだ。客のいるフロアで、だ。あれには笑ったぜ。
その前説の少し前の話だが、青江好祐と女たちが
またもやスケジュール調整や今後の方針でつまずき始めていた。
俺としてはメンバー全員に納得してもらった上で、緩やかでもいいから
活動を続けて行きたいと思っていたが
それもひょっとしたら難しいかもしれないと思い始めていた。
結局は俺が12月18日のライブを最後に、女たちを抜ける事にした。
もちろん俺が抜ければ実質解散も同然だが、女たちの絆が残る事
それはとても大きな事なんだ。
もちろん、メンバーそれぞれには今後もいろんな場面で声をかけるつもりだがな。
素晴らしいプレイヤーを放っておく手は無い、そうだろう?
青女のラストライブで披露した新曲は3曲だったが、他にも俺には新曲があった。
年末に実家に戻る前、そのうち4曲のデモ録音をしたが
俺はついに「Aoe in blue」の次に行こうとしているんじゃないかと感じている。
ずっと大昔、東京にきたばかりの頃に鳴らしていたあのサウンドだ。
今度はもっと上手くやってやるつもりだがな。
じゃあ、またな
まあ、聞いてくれ。
2015年の幕開けはかなり慌ただしかった。
アルバム「Aoe in blue」の仕上げにかかっていたからな。
ジャケットの入稿がかなりギリギリで、
デザインを任せたリュウジにはかなり世話になった。
リュウジに初めて会ったのは10年ほど前の吉祥寺プラネットKだったが、その時から今まで、ずっと頼りになる兄貴分だったのさ。
他にもジャケットの写真を撮ってくれたタルミや、エンジニアからミックス作業まで音関係を任せていたコンドー、たくさんに人間の力を借りていた。
とにかく、あと一歩というところまできていたんだ。
2月にレコ発ワンマンを控えていたが、1月も様々な形でライブをやりまくっていた。
その中の一つ、vojoでのライブではドラマーをクビにしたりと相変わらず困難な状況は続いていた。
クソッ、まさにin blueというわけだ。
青江好祐と女たちではセマという新しいドラマーを迎え、リハを進めていた。
若いのにかなり出来るやつだ。
あまりにも素晴らしくて
「オレの曲に合うように、もう少し下手に叩いてくれないか?」
と言ったくらいだ。まったく、あれには笑ったぜ。
そして迎えた2月の「Aoe in blue」レコ発ワンマンは素晴らしい夜だった。
前半を青江好祐と女たち、後半を青江好祐と男たちに分けて演奏した。
男たちのメンバーはクミチョウやトヨキ、そしてタケシといった
チン青江のメンバーを中心にした。
そこにコンドーがギターで参加しているんだ。サウンドが良くないわけないだろう?
本格的なレコーディングは2014年の9月からだったが
曲の準備や構想期間を含めると実際は2、3年はかかっていた。
このレコ発が終わってようやく、「Aoe in blue」に関する全ての作業が終わったような気がしたんだ。
翌日、伸ばし放題だった髪を切り、髭を剃った。
俺なりのリフレッシュだったわけさ。
いささか疲れは溜まっていたが、3月も俺は止まるわけにはいかなかった。
vojoの新しいドラマーを探さなきゃいけなかったが、オーディションの1発目で
素晴らしいドラマーを捕まえた。それがリーだ。
リハを終えて飲んでいる時、やつは少しナーバスになっていて
「オレをvojoに入れろよ!」と荒ぶったから
「入れるも何も、オレたちはvojoに正式に加入した覚えはないぜ?」と言ってやった。
他のメンバーも笑い転げていたが、その瞬間にやつはvojoの一員になったんだ。
4月は秋葉原のオクトーバーフェストで青江好祐と女たちのライブがあった。
この時メンバーのスケジュールに関して色々と手こずった部分があったが、
アキヨシが呼んでくれたイベントだったからどうにかして出演できるように調整をしたのさ。
ライブはとてつもなく盛り上がり、最後のアンコールでは酔っぱらいたちが総立ちで手拍子をしていた。
まったく信じられない光景だったぜ。
5月は琵琶湖で行われたユウスケの釣りフェスに出たり、拾得で男たちを率いて2マンを
やったりしたが
その前にとても悲しい出来事があった。
祖母のシゲコが亡くなったんだ。
4月末に高松でライブを終えたあと、オレは岡山に見舞いに立ち寄っていたが
その時はまだ元気そうな感じもあり、少し安心したところだった。
オレの活動を常に応援してくれていたが、ライブに一切穴を空けない
タイミングで亡くなったんだ。
シゲコが最後までオレの活動を見守ってくれているような気がして、
俺は何とも言えない気持ちになった。
いつだってオレの音楽のファンでいてくれたシゲコのために
葬儀では「Aoe in blue」を爆音で流した。
出棺を見送ったのは「はいはいろうろう」だったんだ。
シゲコが少しでも喜んでくれてればいいんだがな。
俺は止まっているわけにはいかなかった。
6月にはレコーディングにも少し関わったアカネのワンマンライブや
8月にはそのアカネのAチームでのツアー、さらには
9月から始まるユウスケとの釣りツアーのための新曲も書かなくてはいけなかった。
なんとかそれらをこなし、ユウスケとのツアーに出た。
LOVELOVELOVEのキョンピー、サンやSSWのコータも一緒で
アコースティックとはいえ、かなりバンド感に溢れたツアーになった。
行きの車中、ユウスケの事務所の社長に
「毎回美味い物をたらふく食わせてもらっているから、今回も太らせてもらうぜ」
と言ったのがきっかけで、本当に寝ても覚めても食いまくるツアーになった。
京都で皆と別れる前には1キロのカレーライスを平らげたほどさ。
9月の釣りツアーファイナルを大盛況で終えた後も
vojoやアカネのサポートで俺はかけずり回る事になった。その合間に、コンドーとのライブも2回ほどやったんだ。
一つは剃毛&また生えてくる、というユニットだが、バンドを解散した頃には
またこうやってコンドーと歌う事は2度とないと思っていたからな。
また生えてきたってわけだ。
12月は毎年恒例のユウスケのワンマンの前説をやった。
俺の前説はただ喋るだけではなく、あらかじめ録音した音源に合わせて
色々やるというスタイルだが、社長が6月くらいに
「今までの前説の音源をまとめて物販で売ったらどうだ」
と持ちかけて来たんだ。
その時は正直ピンと来ていなかったが、いざ販売してみると
飛ぶように売れていた。呆気にとられている俺に、社長は
「はい、ごくろうさん」
と売り上げの札束を渡してきたんだ。客のいるフロアで、だ。あれには笑ったぜ。
その前説の少し前の話だが、青江好祐と女たちが
またもやスケジュール調整や今後の方針でつまずき始めていた。
俺としてはメンバー全員に納得してもらった上で、緩やかでもいいから
活動を続けて行きたいと思っていたが
それもひょっとしたら難しいかもしれないと思い始めていた。
結局は俺が12月18日のライブを最後に、女たちを抜ける事にした。
もちろん俺が抜ければ実質解散も同然だが、女たちの絆が残る事
それはとても大きな事なんだ。
もちろん、メンバーそれぞれには今後もいろんな場面で声をかけるつもりだがな。
素晴らしいプレイヤーを放っておく手は無い、そうだろう?
青女のラストライブで披露した新曲は3曲だったが、他にも俺には新曲があった。
年末に実家に戻る前、そのうち4曲のデモ録音をしたが
俺はついに「Aoe in blue」の次に行こうとしているんじゃないかと感じている。
ずっと大昔、東京にきたばかりの頃に鳴らしていたあのサウンドだ。
今度はもっと上手くやってやるつもりだがな。
じゃあ、またな
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